2年前のある休日。
3歳の娘と会社に行く途中に、バス停で視覚障がいの女性がいました。
バスの時刻表に目を凝らして見ていたので、
「何かお手伝いましょうか?」
と声をかけたところ、3本中1本しか到着しないバス停に行くようでした。
一緒にバスを待つ間、話しをしていると、
女性は私が抱っこしている娘の存在に気づき、「何歳?アメ食べれるかしら」と言い、バックからアメをくれました。
娘はキョトンとして、アメを受け取りました。
ー 現在、娘は5歳。
昨日、二人で朝食をとっていると、おしぼりを自分で取りに行くのがめんどくさいと言いました。
「
世界には、手がないお友達もいる。
足がないお友達もいる。
目が見えない人もいる。
でも、手がないお友達は、工夫して足を使うよ。
足がないお友達は、手を使って歩こうとするかもしれない。
目が見えない人は、手を使って、これは何かなと考えるよ。
Kちゃんは、手もあるね。足もあるね。目も見えるね。
自分でできることは、自分でできるようになろう。
自分のことができるようになれば、
困ったお友達がいれば、手伝ってあげれるよ。
困っているときに手伝ってくれると、嬉しい、嬉しいね。
」
と言うと、サーっと取りに行きました。
戻って椅子に座ると、
「
Kちゃんが3歳の頃、バス停に目の見えないおばちゃんがいたね。
パパが手伝っていて、Kちゃんにアメをくれたよね。
」
ある園長先生から、子どもは、体験を通して学ぶと教わりました。
言葉の教育では、「自分のことは自分でしないさい」と伝えるかもしれない。
けれど、なんで自分でするの?
自分を理解できない時期の子どもにとって、この言葉は「記号」でしかない。
園長先生から教わった、「言葉の教育の必要性と限界」
体験、大人の見本、言葉の教育が一致したとき、
娘なりに納得したんだなと感じました。
